不快・イン・サブウエイ

突然だが僕は電車に乗るとき、できるだけ座席に座らないようにしている。
別に、清い心でお年寄りや体の不自由な方にお譲りしているわけでも、溢れる若さを主張しているわけでもなく、座席に座って他人と肩を並べるのが厭だからだ。
となりの人が微妙に体を揺らすたび、僕とそのひとの肩が触れるのが、ええとあんまりはっきり言うのもはばかれるけれども、それでもはっきりいうと、つまり不快、なのだ。
だからその日も僕は地下鉄の中、入り口付近に立っていた。なぜ入口付近かというと、背中を壁にもたれかけさせるためで、やはりいくら他人と肩を触れ合わせないためとはいえ、ずっと直立で電車にのるのは疲れる、というのはそもそも若さなど微塵も溢れていないという事になるのだけれども、とにかく入口付近、そしてすぐ隣に座席の切れ目、端の席があった。
その座席に、非常に綺麗な女性が座っていた。美人は匂いもいいもんだね。臭い美人というのはあんまり見たことがないね。とその人も例外ではなく、起立しているとはいえ隣にいる僕のところまで、なんともいえない甘い、いい匂いが漂ってきた。ああ、こういう人となら肩が触れ合ってもそんなに不快じゃないのかもな、と不順な思考を巡らせながら、筒井康隆の「玄・笑・地・帯」を呼んでいた僕。
すると反対側から「ちゃっ」「ちゃっ」と厭な音が定期的に聞こえてくる。見ると草臥れた老人が不満そうな表情、大げさな動作でガムを噛んでいた。さっきまでのいい気持ちが半減。ああ、不快だ。はっきりいって不快だ。
なぜこんなに不快なんだろうと考えてしまうほど不快だったので考えてみた。
そこには僕が座席にすわらない理由と似たようなものがあって、つまり、隣にすわっている人が体を動かすのも、老人が口を開けてガムをかむ音が「ちゃっ」と鳴るのも、こちらからは全く予想できない、不意のタイミングで発生するイベントであるが故に、まったく身構える隙がない。そしていつ訪れるかわからないそれらに対して絶えず意識してしまい、筒井康隆の面白エッセイに集中できないでいる、というのはこちらの完全なる敗北であり、彼らの制御下、手中で遊ばれているようなものなのだ。不快なはずである。
そんなことを考えながらいらいらしていると途中の駅で老人が下車。
ああ、よかったすっきりした。もうぼくの隣はこのきれいな女性だけだ。
清々しい気分。しかし。
ふと気づけば老人と同時に、甘い匂いが、消えていた。
僕がいい気分で嗅いでいた甘い匂い、発生源は老人の口内であった。
脳髄が痒かった。


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